波止場神社の歴史










別府八湯のシンボル竹瓦温泉の北側に、石塀石垣に囲まれた神社が目につく。

明治の初め、廃藩置県の政治改革で幕府領別府が日田県となり、初代県知事松方正義は将来、鄙びたこの出湯の里が繁栄することを予測した。そのために早速取りかかったのが海上交通の整備としての波止場づくりだった。

その時、築港工事や内海航行の安全を祈願して勧請したのがこの波止場神社である。

 境内にある大正2年に建てられた築港建設の記念碑には総工費20000両、東西100間、南北80間の防波堤を築き、明治6年初めて汽船「益丸」が就航したとある。それだけに祭神はすべて海に縁のある商売繁昌の神々である。八幡神をはじめ、住吉三神から宗像三神、金比羅さん、お稲荷さん、恵比須大黒にいたるまでこの狭い境内に祀ったものである。

 明治3年鎮座祭に配られた記念の扇面には当時の新波止場や流川、松林に家並などの漁村風景が描かれている。扇の裏面には”港の左右の干潟に出湯があり、海内稀なる潮湯泉にてもろもろの病を治す。と記されている。  拝殿は入母屋造桟瓦葺妻入りの建物である。梁間3間、桁行2間の吹放しで正面には「波止場神社」と松方正義の書になる木彫りの額が掲げられている。向拝の木鼻や手挟みには波の紋様が刻まれ、格天井には明治4年駐春園主人嶋石生の手になる花鳥、十二支が描かれている。


本殿は1間社流造桟瓦葺で彩色され、拝殿につながっている。  戦後一時、祭典も途絶えがちで、社殿も荒れた時があったが、昭和40年代に入り町内有志の手により夏祭りも復活され、盛大に行われていた。

 神社北側の鶴田家の恵比須大黒のこて絵にも地域の繁栄を願う波止場神社創祀の心が込められているのではないだろうか。

(H10.8)

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