サルキス氏の作品解説


美術評論家でサルキス氏を日本にご紹介された小倉正史氏によるサルキス氏の作品の解説です。

       
まず,アートの作品とはいったいどういうものか,ということから始めなければならないでしょう.この場合のアートの作品は,主として視覚的に認知されるものです(聴覚とか触覚とか嗅覚とか,ほかの感覚器官に感じられるものも伴うことがあります).つまり,英語ではvisual art と呼ばれるものです.

その作品には,言語とかの社会で一般に用いられている記号表現が含まれることがありますが,その場合の作品も(別府ではYoung-Hae Changと重工業の作品がその例になります),全体として視覚的に認知される(目を通して感じられる)ものであって,言語とか記号とかで表されることと合わさって,総合的に視覚的な作品になります.重工業の作品は,ひとつのストーリーがあって,それを理解することができますが,そこにはまた,イメージや色彩,音響,照明などが加わっていて,全体として,そのストーリーを増幅するようにはたらいています.それによって,その作品の前に立つ人に,もしその人に,感じ取れる力があれば,ただ単にストーリーを頭で理解するだけでなく,なにかの感情を心のなかに引き起こすわけです.

なぜ,重工業の作品について,長々と言っているかというと,この作品で語られているストーリーを理解することが,その作品の「意味を理解すること」にはつながらないということを言いたいからです.なぜなら,その作品は,いくつもの感覚器官を通して,言葉では表しつくせないような表現として,全体として人の心にはたらきかけているからです.

要するに,アートの作品とは,
頭で理解して言葉で言い表すことでは,その意味を理解することができないものです.もしも,言葉で言い尽くされてしまったら,その作品は,アートではあっても,アートではないものに近いかもしれません.まず,こういう前置きをして,問題のサルキスの作品に向かいましょう.


聴潮閣の2階の作品では,モニターと鏡が対になって置かれています.ですが,モニターで表されているフィルムのイメージも,サルキスの人差し指の指紋を繰り返して押した鏡も,それぞれ独立した作品です.この二つが向かい合って置かれていること,そしてまた,この二つは,聴潮閣という1929年に建てられた歴史的な建築物の2階の広間のなかに配置されています.
この広間には,高橋家の家系を示す肖像画や円卓も,サルキスの指示のもとに位置を変えて残されています.
また,サルキスは,全体に音がなく,静けさに包まれるように指示しています.つまり,モニターと鏡だけでなく,この2階の広間の全体で,静けさのうちにかもしだす雰囲気が,サルキスの作品となっているとも言えるのです.

これの「意味」を理解することは不可能です.ですが,人が感知したこと(人によってちがうでしょう)にもとづいて,理解とは言えなくても,「解釈」を試みることは,ある程度はできるでしょう.これは,私が試みる個人的な解釈です.(人によっていろいろな解釈がありえます.)そのための「鍵」のようなものはいくつかあります.床の間の掛け軸に描かれた人物像は,モニターのなかの,葛飾北斎の白拍子の像と,それほどちがった風には描かれていません.サルキスが北斎の版画にもとづく「水のなかの水彩画」を自分の数多くのフィルム作品のなかから選んだのは,別府に残された歴史的な建築物が物語る日本の伝統文化に敬意を持ち,そのことを示したかったということがあったと思います.


鏡は,モニターのなかの,
白拍子の赤い袴を水のなかに移し入れるように動く筆と,絵の具がゆっくりと広がる動きを反映する位置に立てられていますが,鏡の表面は何百もの指紋(数種類の黄色の絵の具による)によって覆われ,はっきりした反映像を見ることはできません.これは,白拍子の描かれた時代と現代の鏡とのあいだの時間のへだたりを表しているのかもしれません.あるいは,桜の花びらに似た指紋の散らばりで,白拍子のあでやかな姿を包みかくしているのかもしれません.いずれにせよ,鏡の前に立つ人は,自分の身体でモニターの映像が鏡に映るのを隠してしまいます.そして,指紋によって鏡の表面を見ることと同時に,鏡が映している自分がその表面の奥に取り込まれて映っているのを見ます.鏡に表面と奥行きがあることに気がつくのです.鏡のなかの距離に気がつくということでしょうか.そうすると,時間的な距離と空間的な距離の両方が,このモニターと鏡の配置によって示されているのでしょうか.広間の空間のなかに包まれた,さらに広がりを感じさせる静かな世界.たぶん,そのような世界のなかに自分がいるということを感じさせるかもしれません.


また,サルキス自身の言葉も解釈の「鍵」になります.人と人,
人と物,さらには物と物とのあいだの対話.これはまた,サルキスが言う「transmission」(伝達)が重要だということにつながります.対話があれば,それによってなにかが伝えられます.どういうことが伝えられるのか,それを考えるのが解釈ということでしょう.

そこでまた,サルキスにとっての重要なテーマ,「記憶」という言葉が鍵になります.サルキスがアートと最初に出会った体験,少年のころにエドヴァルド・ムンクの「叫び」の複製から衝撃を受けたこと,その思い出を語っていたことを思い出されるでしょう.かつてあったことで,いまだに自分のなかで大切なこととして残されている記憶について,私たちに彼は語り,そのことを伝えたのでした.そのように大切なものとして記憶される出来事や物が,だれにでもあるでしょう.そして,それについて伝えることで,ほかの人がその記憶を共有するようになります.大切なこととして記憶されたことが,人から人へ,時間の経過のうちに伝えられることが,伝統となり文化となるのでしょう.

サルキスの作品の特徴のひとつは,そのように伝えられる記憶の重要性を強調していることです.記憶するということは,心のうちに,なにか「跡」(trace,痕跡)のようなものを残すということでしょう.そこで,サルキスの作品で,「跡」にたびたび出会うことになります.鏡の表面の指紋がそうです.それは,絵の具をつけた指の「跡」なのです.心のうちに残される「跡」を,目に見えるような実際の「跡」にしたものでしょう.

また,波止場神社の,水が蒸発して残される絵の具もそうです.水が蒸発する時間の経過によっても消え去らないで跡として残されるもの,それが記憶として残されるものを比喩的に表していると言えるでしょう.

では,なにが,記憶として残されるべき大切なものでしょうか.聴潮閣の2階では,それが暗示されているように思えます.時間と距離を隔てたもの,亡くなられた方の肖像画や,北斎の白拍子,いま鏡の奥に映っている自分といった,広間のなかにあるもののあいだの対話,そうした対話で伝達されるなにか言葉では表し切れないものが,静かな空間のなかで感じとれること,そうした時間を持つことが人には重要だということではないでしょうか.                

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